ペルトン水車

 東平にある、ペルトン水車について、質問があった。

  「ペルトンの、水圧鉄管は、何処を通っていたのか ?」

<答え>

足谷川の、右岸。

でもそれは、間違いではないのだが、質問者が、満足する、答えには、なっていない。

「別子鉱山案内記」に、明治45年の記述がある。

「第三から木桶にて柳谷の水を東平向こうに導き径6インチ、長さ1,000尺の

鉄管で斜めに落し来る。落差360尺。」

(直径15,24Cm、長さ303m、落差109m)

ペルトンの、放水口が見える

ペルトン水車は、630,2mHに設置されていました。+落差109m=739,2mHになります。
第三通洞が、743,6mHですから、−4,4mです。
端出場発電所9号トンネル・柳谷蓋渠の水路底が741,6m、−2,2mです。
取水口は、第三通洞付近にあったことは、間違いないと思います。
より多くの、水量を確保する為に、柳谷と、寛永谷が合流した後から、取水したと、考えるのが普通だと思います。

 住友は、堅実な運営をしており、10年先を見据えて動いていたことは、
各所で見られます。よって、第三通洞の前の、採鉱本部のあった広場を作る事を考えると、
その直後の下流から、取水していたのではないでしょうか ?

そこから木桶により、横水路を通り水槽(会所)から、鉄管でペルトンに行っていたと、考えています。
木桶(モクヒ)は、残っていないと思いますが、水槽(会所)は、
多分レンガの可能性が高いので、残っている可能性はあります。

水槽は、まだ確認していません。

端出場水力発電所の横水路は、1/386。この傾斜よりも、急なれば、水が跳ねて水路を傷めます。
ここは、実質500m位の、横水路になりますので、1〜2mの落差でしょう。
ほぼ、等高線に沿って流れていたと、考えてもよいと思います。明治27年設置と、年表にありますが、いつ廃止されたかは、不明です。
第三通洞は、明治27−35年に、掘られています。

「シュラム式削岩機を使用。」とありますが、
第三通洞・開削後も、坑内の、削岩機の動力に利用されていたと思っています。
明治45年に、端出場水力発電所が、本稼動します。

明治43年12月29日に発電運転をしたと聞きました。

明治44年2月に、第三通洞は完成ですから、44年2月の日浦から、水が来るまでの間、
東平のペルトンに使っていた、柳谷の水で、試験運転したのではないでしょうか。
 (さすがに、水は上に向いては、流れてくれません。柳谷からの取水だったと思います)

上記の理由で、端出場水力発電所の、試運転の時を持って、東平のペルトン水車が、
終わりになったのではないかと、考えています。

落シ水力発電所は、明治37年9月に、出力90Kw・30サイクルで
稼動を始めています。その後、大正8年に、+180Kw=270Kwに、増設。

初期の高圧鉄管は、不明ですが、増設時には、
東圧鉄管の内径、0.589−0,610mとあります。

 東平のペルトンの鉄管と比べると、4倍の径。16倍の容量です。
ちなみに、端出場水力発電所は、上部0,86m・下部0,61mです。
それを考慮すれば、ちょっと大きすぎる気もします。

落シ水力発電所の、主水源は、足谷川の、鴨渕からの取水でした。
落シ水力発電所は、昭和18年12月に廃止になっています。

その前に、大正12年に、大正8年に増設した180Kwが無くなっています。
これは、大正12年に、端出場水力発電所が、四坂島へ送電の為、
4,500Kwに増設した為余水が、取れなくなった為です。

 第三通洞から、石ヶ山丈・沈砂池(水槽)までの間の、地獄谷から、余水を
落して、落シ発電所に使っていたのが、無くなった為と、聞きました。

 赤線に、水路があったと想像
 
 大正14年の、東平地形図に書き込みました。あくまでも、私の想像です。しかし、別子鉱山案内記を、信用すると、このような図面になります。
 
 後日、昔の絵葉書のコピーを頂きました。 第三通洞付近の、木桶が写っています。横水路の位置を、変更する事になると思います。
疑問が出来たので、現地に行って来ました。 「長さ1,000尺の鉄管で斜めに落し来る。」の、文章も、検討する必要があると思い始めました。